「小栗上野介の最後」  〜南陽寺にまつわるよもやまばなし=`

それから東山道総督に従い攻め下ったが、三月上州簗田で官軍と幕軍が衝突した。
幕軍敗れ、越後路をどんどん逃げ去った。
ところが突然こんな噂が立った。
「幕軍の勇将古屋作左衛門が、一部の兵を引具して、先に江戸開城後、上州権田に蟄居していた旧勘定奉行小栗上野介と協力して官軍の本陣板橋を襲撃するさうだ。」
そこでこの手の総督参謀から断然たる処分をするようにとの命が下った。
総督は岩倉公の一子具定公で当時十八歳、副総督はその弟君具経公十六歳であった。
共に岩倉村で余が剣術の指南をした方々である。
余は監軍豊永貫一郎と二人で、小栗の棲んでいる権田村の東善寺に向かった。
この地は四辺の眺めの美しい平坦な地であるが、寺前の小丘には大砲が一門備え付けてあった。
余等は直ちに小栗に会見した。
小栗は従容として縛につき、「拙者は梟首されるのも辞せないが、妻子は既に遁がしてしまったから、それだけは見遁して頂きたい。」といふ。
「妻子を追求する必要もあるまい。」
余等はその情を察して、小栗を直ちに駕へ乗せ、余等が護衛して三倉村の征東軍の陣営に伴れ来り、六日の朝早く、烏川の河原へ引出してその首を刎ねた。
傾かんとする幕府の最後に当たって、その敏腕を奮った一代の政治家も遂に、かくして烏河原の朝露と消えてしまった。
その跡始末は直後岩鼻県知事の大音龍太郎がした。
その事件なども余の生涯忘れることの出来ぬものの一つである

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