「お札踊り」  〜南陽寺にまつわるよもやまばなし=`

その頃大垣の藩士に井川五蔵といふ人があった。
維新後陸軍少将にまでなったが、当時はまだ佐幕党の一人であった。
軍略に長けた明敏な頭脳をもった男で、ある時二条城へ登城し将軍慶喜に建議した。
岩倉公を討つと共に、
「目下白河屋敷には浪士が僅かと、相国寺には薩摩の士が少々居ります。この隙に乗じて一気に攻め殺したならば時局は雑作なく救われると信じます。」
けれどこの建議は用いられずに終わった。
もしこれが実行されていたら、維新回天の大事業は、一大頓挫を来しただろう。
危ない事であった。
けれど、これも後になって判った事で、当時勤王の志士は夢想だにせぬ畫策である。
さうゆう風に佐幕党は佐幕党で、勤王派は勤王派で種々計謀を廻らしてゐたのであるが、それは決して相手方に知られず、凡て秘密の中に行なはれていたのである。
後世史家の説く如く、互ひに敵の畫策の裏を掻くなどと、探偵小説めいた事が出来たのではない。
京都で大変な騒ぎを巻き起こしたお札踊りの如きは善くその消息を語ってゐる。
お札踊りといふのは斯うである。
「この頃京都の町へ、お札が降るさうだ。」
誰いふとなくそんな噂が立った。
成程朝起きて見ると、屋根の上とか、樹木の枝とか、或は庭の縁などに、伊勢大神宮や春日大社などのお札が落ちている。
「これは目出度い。屹度近い中に何か善い事が、当家へ舞い込む前兆に相違ない。」
お札の落ちていた家では、神棚を浄め赤飯を蒸して祝ふ。
ところが、それが殆ど京都全部に及んだので、
「これは一家の問題ではなく、京都全体にお目出度がある前振れだらう。」
そこで京都ではその前振というふ意味で、誰の発案ともなく提灯を出し、揃ひの衣装を着け、お札踊りといふものを踊って騒いだ。
その賑わひは、後の御大典の賑わひ以上であった。
「ええじゃないか、ええじゃないか。障子が破れたら、貼り替えりゃええじゃないか。」
そんな風な歌をうたって、町民は日夜踊り狂った。
終には京都守護の新撰組の隊士もその中に交じって踊る。
勤皇の志士もその中に交じって身を潜める。まるで狂気の沙汰であった。
その間に。すっぽりと大政奉還の事が済んでしまった。
踊り狂った新撰組の者は呆然として、開いた口が塞がらない。
勤皇の志士も気抜けしたやうであった。
そして今日に至るまで、このお札踊りが誰の畫策であったか明瞭でない。
兎に角、血気はやる気武士達の心をお札踊りへ集中させて置いて、着々大政奉還の事を運んだ策略は実に破天荒で天晴れなものである。
斯ういう風に、敵味方供相手が何を企んでゐるかは少しも知らない間に、維新、維新へと時は動いていたのである。
(中略)

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