「岩倉公供奉時代」  〜南陽寺にまつわるよもやまばなし=`

余は丹波国園部、小出信濃守の藩士であるが、文久三年余の十六歳のとき江戸へ出て、斉藤塾…即ち練兵館道場で剣術の修業をした。
余の学んだのは、二代目斉藤弥九郎で、先代は既に篤心斉と号して代々木の山荘に隠退していた。
けれど道場へも時々顔を出して、門弟の稽古を見ていた
熱烈な勤皇家で、桂小五郎初め、渡辺昇、山尾庸三などの傑物を出している。
二代目斉藤弥九郎も父に劣らぬ腕前で、この人の向こうに廻る者は千葉周作の跡をとった千葉栄二郎ぐらいだといわれていた。
「二人が手合わせをしたら、余程面白いことになるだろう。」そんなことを実行させようと企んだ物好きもあったが、殺伐な当時であるから二・三の大藩が口入してそのことは行われなかった。
余は研鑚怠りなく励んだので、数年の跡には許されてこの道場の塾頭となり、余が二十歳にして京都へ出るまで努めた。
京都へ出てからは、余は多くの名士を訪問したが、これぞと思う人にも出会わなかったが、岩倉村の實相院諸大夫入谷駿河守の紹介で岩倉具視公を訪ねてからは、その人物の得易からぬ傑物なることを知って、自ら進んでその供奉の任に当たった。
(中略)
公は始め公式合体論を主唱した為、広畑忠禮等十三人の公家に弾劾され、勅堪を蒙り岩倉村に幽居、落飾まで仰せつかったのであるが、時勢の移るとともに公の真意が志士の間で諒解され却って勤皇派の仰ぐ処となった。
そこで佐幕派の新撰組からは目をつけられていた。
何日何時新撰組の白刃が蹴り出さんとも限らないから、供奉している皆は四六時中刀の柄に手をかけんばかりの緊張した気持ちでお供をした。
途上、よく新撰組の隊士に出遭った。
けれど何故か、乱暴にも及ばず見逃していた。
しかし、その都度自分たちはハラハラした。
今でこそ新撰組といえば近藤勇に限るようにいっているが、当時余は近藤などは殆ど眼中に置いていなかった。
却って土方歳三のほうが恐ろしく、彼に出会ったら余程注意をしなくてはならぬと思った。
その当時の自分達は毎日死を覚悟していた。
余にとっては忘れることのできぬ壮烈な時代である。
供奉の暇には、公の二子に剣術を教えていた。

南陽寺 〒622-0002 京都府南丹市園部町美園町1-1 Tel0771-62-2008 Fax0771-62-2004   > リンク